江戸時代から明治時代へ。明治4年(1871)に日本の郵便制度がはじまりました。明治5年には郵便役所が全国に設置され、政府は江戸時代に地域のまとめ役だった名主に自宅などを郵便取扱所とする旨を要請、全国約1100箇所へと郵便取扱所は拡大していきました。
初狩郵便局のはじまりは明治5年(1872)初めに下初狩逓送請負人として本陣家の富田右内とみどう奥脇家の奥脇市右衛門の2名が連名で任命されました。明治5年(1872)7月1日に「下初狩郵便取扱所」が開設され明治8年(1875)1月1日に「初狩郵便局」と改称されました。
初狩郵便局舎は、明治5年(1872)7月1日(現1872年8月4日)から大正14年(1925)頃まで現在の初狩駅前付近にあったとされ、その間、明治20年頃と大正14年頃の二回、火災にあったと伝えられています。明治43年(1910)11月1日、入口がアーチ型庇屋根の建物へ一新された記録が残っています。尚、明治5年から明治43年頃の間に局舎があった場所は、初狩駅前(下初狩3321)、水害で倒壊した旧御堂屋敷(下初狩224)、現「本陣跡・古民家 みどう本陣」(下初狩307)の3箇所のいずれか、記録が残っていないため諸説あります。大正14年(1925)5月15日、駅前局舎が火災により現在の「本陣跡・古民家 みどう本陣」へ移転し、昭和38年(1963)3月31日までの38年間当建物は住居兼初狩郵便局として使われました。
【初狩郵便局 局舎所在地の変遷】
・明治5年(1872)7月1日~
地番:不詳
・明治43年(1910)11月1日~
地番:下初狩3321
初狩駅前アーチ型庇入口局舎
・大正14年(1925)5月15日~
地番:下初狩307
現、本陣跡・古民家 みどう本陣
・昭和38年(1963)4月1日~
地番:下初狩3388-3
初狩駅前コンクリート造平屋局舎
・平成30年(2018)3月12日~
地番:中初狩301-1
現在に至る
初代初狩郵便局長は、本陣家の長男の富田右内。第三代は富田徳音で右内の長男。みどう奥脇家からは4人の局長を輩出しています。第四代の奥脇賢造は、右内の弟で奥脇市右衛門の養子となり奥脇姓となる。第五代の奥脇愛五郎は、右内の弟の清左衛門が藤本家へ養子、藤本清左衛門の四男として生まれ、のちに奥脇賢造の養子となる。第六代の奥脇賢吾は、愛五郎の長男で大正11年から昭和46年まで約50年に渡り局長を勤めました。本陣家とみどう奥脇家は初狩郵便局と深い関わりがありました。敷地内には、現役の赤い丸型ポストが残されており歴史を感じさせてくれます。
【初狩郵便局 歴代局長】
(明治5年~昭和50年まで掲載)
・初代 富田右内
就任日:明治5年(1872)7月1日
・二代 山田善右衛門
就任日:不詳
・三代 富田徳音
就任日:不詳
・四代 奥脇賢造
就任日:明治31年(1898)10月14日
・五代 奥脇愛五郎
就任日:大正8年(1919)4月11日
・六代 奥脇賢吾
就任日:大正11年(1922)01月23日
・七代 奥脇賢徳
就任日:昭和46年(1971)8月14日
本陣跡・古民家 みどう本陣では「郵便の間」において、消印コレクター垂涎の明治時代最古の初狩郵便局消印(複写)や当時の写真など旧初狩郵便局に関わる資料展示をご覧いただけます。
参考URL:レトロ郵便局WEBサイト
【初狩郵便局 明治時代の消印】
明治時代開局当時の初狩郵便局で使用されていた消印。「二重丸型日付印 下初狩KG」と呼ばれるもの。下初狩郵便取扱所の開局は明治5年7月1日。設置名称は「下初狩」。明治7年中に「初狩」と改称。初狩郵便局の名称となったのは明治8年1月1日。明治6年4月1日~明治10年頃まで使用していた「二重丸型日付印KG」と呼ばれるタイプの消印。当初は年号は割愛されています。KGは国(K)と郡(G)で甲斐国と都留郡を表しています。これは下初狩KGで明治8年1月9日の東京郵便局からの到着便。
画像提供 所蔵:田中秀胤 氏(甲府郵趣会)
現、本陣跡・古民家 みどう本陣
大正14年(1925)5月15日~昭和38年(1963)3月31日の間、住居兼初狩郵便局として使われました
現、郵便の間
郵便の間 展示室
明治時代の消印の展示
明治8年・10年・16年以降のもの
明治時代の写真・資料展示
住居兼初狩郵便局の当時
郵便の間にあった電話交換機
昭和33年(1958)頃撮影
明治時代の初狩駅前アーチ型庇入口局舎
大正3年(1914)撮影
初狩駅前コンクリート造平屋局舎
(写真左側)
昭和38年(1963)4月1日~平成30年(2018)3月11日
現在の初狩郵便局 中初狩301-1
平成30年(2018)3月12日~現在に至る