◇初狩瓦の由来

初狩町の日向(ひなた)地区は法雲寺の東側、甲州街道と中央自動車道の間に位置します。日向では明治初年のころ愛知県の人、山田兵エ門さんによって瓦作りが始められました。山田さんは郡内各地を瓦のもととなる粘土を探し歩いた末、日向の油気のない非常に良い粘土を掘りあて、ここに窯を築き瓦を焼き始めました。日向の瓦は国内瓦の生産地の呼称の一つとして、かつて「初狩瓦」と呼ばれ全国的なブランドだったのです。『我が初狩は天与の良質の粘土の発見により、風災、火災より難をどれほど免れた事か。新旧の家屋は、ほとんどが数年来に瓦屋根になった事は他になき産物があったことにほかならず、都留、吉田の家を見るにつけ一層その感を深くします。初狩の多くの窯元さんの苦労の昔話を聞くにつけ、我が里人にいかに大きな福利をもたらしたかを思わずにはいられません。(資料:波加利の里より引用)』

大正時代の初めには尾張、三河から来た窯元は皆故郷に帰り初狩の地元の人だけになった。地元の窯元さんたちが優秀な後継者を育て、昭和戦後の建築ブームに繁栄したが、昭和40年代に中央自動車道の工事が始まることにより(昭和52年(1977)大月~勝沼間開通)、窯元工場の大部分が用地買収にあった。その後、窯元の煙突から立ち昇る煙の風景は見られなくなり「初狩瓦」の生産は終わってしまったのです。日向に残る窯はもうありません。

令和3年現在、日向の瓦職人は近藤瓦店の近藤文博さんを残すのみとなり、初狩自徳寺の平成の大改修で近藤さんは瓦を寄附し、ふき替え工事も自ら行ったのです。みどう本陣の瓦は昭和30年代初頭に、かやぶきから瓦へとふき替えられた現存する数少ない「初狩瓦」の屋根です。65年以上経つ屋根は雨漏りも年々増えてきました。この風景を残すため既存の瓦を活かし、一度取外し・下地再施工・清掃・ふき直しといった難解な工事、まさに匠の技で近藤瓦店のお弟子さんによるメンテナンスをお願いしています。

 

<参考文献>

「波加利の里 」初狩町高齢者学級著作(昭和53年(1978)3月)

<写真>

 【1枚目:明治の山田家刻印初狩瓦 

     撮影協力,近藤文博氏所蔵

  2枚目:近藤家の初狩瓦屋根

  3枚目:みどう本陣初狩瓦屋根

  ©画像:byみどう本陣】